曲目 :
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第一楽章: 活気をもって,極めて決然と
première mouvement - animé et très décidé |
A |
第二楽章: 充分生き生きと,リズミカルに
deuxième mouvement - assez vif et bien rythmé |
B |
第三楽章: 穏やかに,そして表情豊かに
troisième mouvement - andantino, doucement expressif |
C |
第四楽章: 非常に躍動的に,情熱を持って
quatrième mouvement - très mouvementé et avec passion |
(全4曲)
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概説:
1893年,ドビュッシー31才の作。ドビュッシーの評価を高める契機となった『牧神の午後への前奏曲』とほぼ同時期の1892年に着手された。循環形式をとり,重度にフランクの影響をあらわす一方で,ワグネリズムの影響を離れ,非機能和声と旋法表現に立脚した独自の語法への本格的な遷移を示す,最も早い時期の作品のひとつ。イザイ四重奏団に献呈され,同年12月に国民音楽協会定期演奏会で初演された。この演奏会では,ヴァンサン・ダンディの伴奏でウジェーヌ・イザイの弾くフランクのヴァイオリン・ソナタ,フォーレの『チェロとピアノのための哀歌』,ダンディの弦楽四重奏曲がそれぞれ演奏され,「主題の詩情や類稀な響きという点で,若々しいロシア」の影響がみられるとしたギ・ロパルツ(ギド・ミュジカル誌)や,「単純であると同時に複雑な,きわめて魅惑的な芸術作品」(オクターヴ・モース),「ガムランを想起させる和声の連なり」(モリス・クフラート)と評されたほか,翌年の楽譜出版に際しては,ポール・デュカからも(主に第一楽章について)高い評価を得たものの,大きな話題を呼ぶまでには至らなかった。
ドビュッシーはこの作品を書く一年ほど前の1892年頃から,7歳半年長の作曲家エルネスト・ショーソンと親しく交流するようになっていた。銀行家の息子で裕福だったショーソンは,フランクやダンディ,フォーレはもちろん,ドガやルノワール,ロダンら気鋭の若手芸術家とも広く交流していた。彼は貧しかったドビュッシーに経済的な庇護を与え,芸術家仲間への門戸を開き,いわば兄のような存在となる。こうした経緯から,弦楽四重奏曲も当初はショーソンへ献呈することが考えられていた。しかし,この作品に対するショーソンの反応は好意的なものではなく,ドビュッシーを失望させた。そこでドビュッシーは「あなたのため,そして心からあなたのためのものであるような作品を別途書くことにし,私の形式を気品高いものとするよう努めることにしましょう」(1894年2月5日)と約束し,献呈を取りやめている*。しかしながら,この約束は遂に実現しなかった**。
当時ドビュッシーには,1890年から苦楽を共にしてきた愛人のガブリエル(=ギャビー)・デュポンがいた。エキゾチックな美貌を備え,才知に長けた彼女は,年若いドビュッシーの芸術家としての才気をいち早く見抜き,様々な内職をしては私生活を助けることを誇りにするような女性であったらしい。しかし,ドビュッシーを社交界へ引き上げ,作曲家として専心できる安定した家庭を持たせようとしていたショーソンとルロル(14歳年長)にとって,独立心旺盛でエネルギッシュなギャビーは好ましくない存在であった。このことが,《選ばれた乙女》の初演で独唱を担当したサロンの歌手テレーズ・ロジェ(Thérèse
Roger)とドビュッシーの間で婚約の話が持ち上がった背景にもあったと思われる。サン=マルソー夫人はドビュッシーにプロポーズを促し,ショーソンがこれを応援。義兄のルロルからショーソンに宛てた書簡(1894年2月25日付)によれば,4月16日には挙式させ,ヴァノー通りに新居を借りる手配まで整えられていたという。ショーソンは愛人との関係の清算を求め,ドビュッシーもこれに応じようとはしていたようだ***。しかし彼は結局,ギャビーとの同棲を解消することはなく,3月下旬にテレーズとの婚約を解消。社交界の習わしにこだわるショーソンとドビュッシーとの友情は,これを最後に途絶えることになる****。
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ルザンシーの別荘で,ショーソン,ルロルらに囲まれ
ピアノを弾くドビュッシー(1893年5月)
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ギャビー・デュポン |
テレーズ・ロジェ |
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注 記
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結局,この弦楽四重奏曲は,初演を手掛けたイザイ四重奏団に献呈されている。ところで,この曲の正式な標題は「弦楽四重奏曲第一番ト短調,作品10」であった。ドビュッシーは1894年3月の書簡で,《弦楽四重奏曲第二番》を,ヴァイオリンとピアノのためのソナタとともに,いったんは着手していたことを示唆している。しかし,これらはいずれも日の目を見ていない。本作品を除き,ドビュッシーが自作に作品番号を付けることは一切無かったため,Lockspeiserはこれを,堅苦しい番号付けの慣習に対する一種のアイロニーだったのではないかと推測している。 |
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ちなみにショーソンも同時期,この曲をピアノ連弾版に編曲することを計画していたが,これも10年後,A.バンフェルドによって編曲されるまで実現されぬままに終わっている。 |
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慣習や規範を重んじる社交界において,恋愛や婚姻がどのように取り扱われていたかを,現代人の感覚でのみ推し量るのは早計である。ギャビーとテレーズとの板挟みになったドビュッシーと,ショーソンを取り巻く人間との間の思惑の齟齬は,「テレーズ・ロジェ嬢とクロード・ドビュッシーとの間に結婚の計画があるのです!それはまったく現実離れしていますが,その通りで,おとぎ話のようにそうなったのです!私はロジェ嬢に対して深い愛情を感じていましたが,私にとって,そのことはとても認められがたいことのように思われたので,あえてそのことは考えないようにしていたのです!」(アンリ・ルロル宛書簡:1894年3月)との記述から伺うことができよう。いっぽうで,ドビュッシーは「私の最後の愛人は,二月のある時,自分の境遇を改善するために,出ていきました」とも書いており,経済的にも人脈の上でもドビュッシーの庇護者であったショーソンの要請と,ギャビーへの愛情との間で苦悩する様子の一端を伺わせている(併せてDietchyの記述も参照のこと)。こののちドビュッシーと生涯の友となるピエール・ルイスが,「ドビュッシーを応接間の歌い手(サロン歌手)と結婚させるなんて,重大な浅慮だ。この結婚は悪い結果しかもたらさないだろうと確信する。友のためを思うと辛い限りだ」(1894年2月24日付親族宛書簡)と,対照的な感想を持っていた点は注目してよいだろう。 |
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ショーソンの娘エチャネット女史がLockspeiserに宛てた書簡(1959年5月15日)によると,テレーズとの婚約破棄のほかに,生活苦にあったドビュッシーによる再三の無心(特にロジェ女史との婚約に絡めた無心)も,ショーソンの不信を招く結果になったようだ。実際,ドビュッシーがショーソンに宛てた最後の書簡では,「・・私はロジェ夫人に対して私の借金を何ら隠し立てしませんでした。そして私は,友人Xが私のただひとりの債権者となってくれると夫人に言うつもりです!さらに,別の振る舞い方をするのは私にとって不可能でしょう・・(中略)・・ですから,さらに一五〇〇フランを,まずいくつかの借金を清算するために,私に貸してくださる必要があります!」との記述がある。これは《婚約の障害には私の借金があり,これを解決するためにもあなたの援助が必要だ》の婉曲的な言い換えとも読める。この手紙の数日後に,ドビュッシーは婚約を破棄した。 |
Reference
平島三郎編著(1993)『ドビュッシー』音楽之友社,72頁。
F. ルシュール著・笠羽映子訳「伝記 クロード・ドビュッシー」.
{Lesure, F. 2003. Claude Debussy, Biographie critique. Paris,
Fayard.}
F. ルシュール著・笠羽映子訳「ドビュッシー書簡集」. {Lesure, F. 1993. Claude Debussy,
correspondance 1884-1918, Paris, Hermann.}
Ashbrook, W. and Cobb, M.G.
1990. A portrait of Claude Debussy. Oxford: Clarendon Press. {Dietschy,
M. 1962. La passion de Claude Debussy. Neuchatel:
Baconniere}
Barraque, J. 1994 (1962) Debussy. Editions du Seuil.
Gallois, J. 1994. Ernest Chausson. Fayard.
Lesure, F. and Nichols, R. (eds.) 1987. Debussy Letters. Faber and Faber.
Lockspeiser, E. 1962. Debussy: his life and mind volume 1,
1862-1902. New York, Macmillan.
Lockspeiser, E. 1972. Debussy. New
York: McGraw-Hill.
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