概説 :
1908年5月〜9月,ラヴェル33才頃の作。34才の若さで,貧困と病のうちに世を去った薄幸の詩人アロイジウス・ベルトラン(Louis
'Aloysius' Jacques Napoléon Bertrand: 1807-1841=右彫像)が1835年に執筆(出版は1842年)した散文詩集『夜のガスパール:レンブラントとカローの想い出に贈る幻想(Gaspard
de la nuit, fantaisies à la mémoire de Rembrandt et de Callot)』を題材にして作曲された。ベルトランはのちの象徴派の先駆ともされる詩人。韻文詩全盛の当時,散文詩の世界を切り開き,死者や悪魔,霊魂などへ題材を求める怪奇・幻想的な世界観に特徴がある*。
1842年に出版された原著はとうに絶版となり,蒐集家垂涎の品と化していたが,1895年にメルキュール・ド・フランス社によって復刊される。ラヴェルがこの詩集を知ったきっかけも,学生時代からラヴェルの作品の多くを初演してきたリカルド・ヴィーニェスに,このとき再版された同著を紹介されてのものであった。
1908年,この詩集は再版され,再びラヴェルのインスピレーションを掻き立てた。これが作曲の契機になったと思われる。1909年1月の初演もヴィーニェスによって行われ,好評を博している**。このとき,批評家はこぞってヴィーニエスの技巧と解釈の見事さを褒め称えた。しかし,華やかな演奏を得意とするヴィーニェスが内省的なこの作品に合わないと考えたラヴェルは,「ヴィーニェスの演奏はこの作品にそぐわないし,とりわけ彼は『絞首台』を,私が意図した通りには弾いてくれないからなのです」(カルゴフォレッジ宛書簡:1922年3月4日)との理由から,この曲を録音する際には,彼に演奏を委嘱しなかった。
注意して見ると,ヴィーニェスはラヴェル初期のピアノ曲の大半を初演したピアノ奏者であるが,こののち,ラヴェルのピアノ作品をほぼ全く初演していない。こののち,ますます内省性を増していったラヴェルの作風の変化を端的に示す好個の例としてのみならず,ヴィーニェスとの関係の微妙な変化を示唆するようで興味深い。第1曲はハロルド・バウアー(Harold
bauer),第2曲はジャン・マルノール(Jean Marnold),第3曲はルドルフ・ガンツ(Rudolph
Ganz)に献呈。
作曲者はこの曲の管弦楽配置を残さなかったが,管弦楽版のイメージは持っていたらしく,ペルルミュテルの校訂した同曲の譜面には,作曲者がペルルミュテルに対して曲想を説明する際に持ち出した具体的な楽器名の例示が記入されている。なお,管弦楽配置はのち1990年にマリウス・コンスタンによってなされ,1991年にデュラン社から出版されたほか,クリストフ・エッシェンバッハ指揮:パリ管弦楽団による録音も出た(Ondine:
ODE10512)。
自筆譜はテキサス大学オースチン校人文科学研究センター(全18頁:「水の精」6頁,「絞首台」3頁,「スカルボ」9頁)。この他,1922年に作曲者監修および立ち会いのもとで,ロベール・カザドシュが録音した「絞首台」のピアノ・ロール録音が残されている。
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ベルトランの彫像とサイン
(ディジョン,アルクビューズ庭園)
初版本の表紙 |
注 記
* ガスパールとは,もともと嬰児キリストの誕生を予見し,その生誕を祝うため,ベツレヘムへ赴いた東方三博士の一人(Melchior,Gaspard,Balthazar)の名前である。ただし,ベルトランの詩集では,これを踏まえた上で,敢えて悪魔の名前として用いている。彼は端書きに,あるとき出会った「夜のガスパール」という男の話を記している。文学や美学の法則とは何かを尋ねる作者に対し,その男は,芸術のイデーを悪魔と捉え,探し回った果てに,悪魔は存在せず,芸術のすべては神の御胸にあることを悟ったと饒舌に語った。そして彼は,絶対的な詩を求めて若さ・愛・快楽・富を犠牲にした唯一の結果である散文詩の草稿を渡して立ち去る。「芸術の全ては神の身胸にある」ことはいわば,見つけようのないものを示す逆説であり,彼が悪魔だったことを示唆している(=昼のガスパールが三博士なら,自分は夜のガスパールである,との含意がある。余談乍,筒井康隆「朝のガスパール」(1991-1992)も同じ趣向)。標題はこの逸話から付けられた。右図は同著初版本の表紙。
** 例えばルイ・ラロワ(Louis Laloy)は,この曲のもつ「予見不可能なほどの悦楽と刺激に溢れた音響」のもつ「尽きることのない芳醇さ」を絶賛している。
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Reference
ニコルス, R. 渋谷訳. 1987. 「ラヴェル−その生涯と作品」泰流社.
Myers, R.H. 1960. Ravel: life and works. London: Gerald Duckworth & Company.
Larner, G. 1996. Maurice Ravel. London: Phaidon, pp. 109-111.
Orenstein, A. 1991 (1975). Ravel: man and musician. New York: Dover Publications, pp. 58-59 / pp. 170-172 / 228-229.
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