夜のガスパール
Gaspard de la Nuit
trois poèmes pour piano d'après Aloysius Bertrand


「『夜のガスパール』は悪魔の助けを得て書き上げられています。
しかし,驚くにはあたりません。この詩の作者は悪魔なのですから」

イダ・ゴデフスカ宛て書簡
(1908年7月17日)

曲目 :
@ 水の精 ondine - lent
A 絞首台 le gibet - très lent
B スカルボ scarbo - modéré

 (全3曲)


概説 :
1908年5月〜9月,ラヴェル33才頃の作。34才の若さで,貧困と病のうちに世を去った薄幸の詩人アロイジウス・ベルトラン(Louis 'Aloysius' Jacques Napoléon Bertrand: 1807-1841=
右彫像)が1835年に執筆(出版は1842年)した散文詩集『夜のガスパール:レンブラントとカローの想い出に贈る幻想(Gaspard de la nuit, fantaisies à la mémoire de Rembrandt et de Callot)』を題材にして作曲された。ベルトランはのちの象徴派の先駆ともされる詩人。韻文詩全盛の当時,散文詩の世界を切り開き,死者や悪魔,霊魂などへ題材を求める怪奇・幻想的な世界観に特徴がある*

1842年に出版された原著はとうに絶版となり,蒐集家垂涎の品と化していたが,1895年にメルキュール・ド・フランス社によって復刊される。ラヴェルがこの詩集を知ったきっかけも,学生時代からラヴェルの作品の多くを初演してきたリカルド・ヴィーニェスに,このとき再版された同著を紹介されてのものであった。
1908年,この詩集は再版され,再びラヴェルのインスピレーションを掻き立てた。これが作曲の契機になったと思われる。1909年1月の初演もヴィーニェスによって行われ,好評を博している
**。このとき,批評家はこぞってヴィーニエスの技巧と解釈の見事さを褒め称えた。しかし,華やかな演奏を得意とするヴィーニェスが内省的なこの作品に合わないと考えたラヴェルは,「ヴィーニェスの演奏はこの作品にそぐわないし,とりわけ彼は『絞首台』を,私が意図した通りには弾いてくれないからなのです」(カルゴフォレッジ宛書簡:1922年3月4日)との理由から,この曲を録音する際には,彼に演奏を委嘱しなかった。

注意して見ると,ヴィーニェスはラヴェル初期のピアノ曲の大半を初演したピアノ奏者であるが,こののち,ラヴェルのピアノ作品をほぼ全く初演していない。こののち,ますます内省性を増していったラヴェルの作風の変化を端的に示す好個の例としてのみならず,ヴィーニェスとの関係の微妙な変化を示唆するようで興味深い。第1曲はハロルド・バウアー(Harold bauer),第2曲はジャン・マルノール(Jean Marnold),第3曲はルドルフ・ガンツ(Rudolph Ganz)に献呈。

作曲者はこの曲の管弦楽配置を残さなかったが,管弦楽版のイメージは持っていたらしく,ペルルミュテルの校訂した同曲の譜面には,作曲者がペルルミュテルに対して曲想を説明する際に持ち出した具体的な楽器名の例示が記入されている。なお,管弦楽配置はのち1990年にマリウス・コンスタンによってなされ,1991年にデュラン社から出版されたほか,クリストフ・エッシェンバッハ指揮:パリ管弦楽団による録音も出た(Ondine: ODE10512)。

自筆譜はテキサス大学オースチン校人文科学研究センター(全18頁:「水の精」6頁,「絞首台」3頁,「スカルボ」9頁)。この他,1922年に作曲者監修および立ち会いのもとで,ロベール・カザドシュが録音した「絞首台」のピアノ・ロール録音が残されている。




ベルトランの彫像とサイン
(ディジョン,アルクビューズ庭園)


初版本の表紙
注 記

* ガスパールとは,もともと嬰児キリストの誕生を予見し,その生誕を祝うため,ベツレヘムへ赴いた東方三博士の一人(Melchior,Gaspard,Balthazar)の名前である。ただし,ベルトランの詩集では,これを踏まえた上で,敢えて悪魔の名前として用いている。彼は端書きに,あるとき出会った「夜のガスパール」という男の話を記している。文学や美学の法則とは何かを尋ねる作者に対し,その男は,芸術のイデーを悪魔と捉え,探し回った果てに,悪魔は存在せず,芸術のすべては神の御胸にあることを悟ったと饒舌に語った。そして彼は,絶対的な詩を求めて若さ・愛・快楽・富を犠牲にした唯一の結果である散文詩の草稿を渡して立ち去る。「芸術の全ては神の身胸にある」ことはいわば,見つけようのないものを示す逆説であり,彼が悪魔だったことを示唆している(=昼のガスパールが三博士なら,自分は夜のガスパールである,との含意がある。余談乍,筒井康隆「朝のガスパール」(1991-1992)も同じ趣向)。標題はこの逸話から付けられた。
右図は同著初版本の表紙。

** 例えばルイ・ラロワ(Louis Laloy)は,この曲のもつ「予見不可能なほどの悦楽と刺激に溢れた音響」のもつ「尽きることのない芳醇さ」を絶賛している。



Reference
ニコルス, R. 渋谷訳. 1987. 「ラヴェル−その生涯と作品」泰流社.
Myers, R.H. 1960. Ravel: life and works. London: Gerald Duckworth & Company.
Larner, G. 1996. Maurice Ravel. London: Phaidon, pp. 109-111.
Orenstein, A. 1991 (1975). Ravel: man and musician. New York: Dover Publications, pp. 58-59 / pp. 170-172 / 228-229.




作曲・出版年 作曲年: 1908年5月(5日)〜9月5日。
出版: 1909年(デュラン社)
編成 ピアノ独奏
演奏時間 約24分(7分,7分,10分)
初演 1909年1月9日,リカルド・ヴィーニェス(ピアノ),於 国民音楽協会定期演奏会,エラール・ホール。
※コンスタン編の管弦楽版はロラン・プティジラール指揮パリ交響楽団。1991年2月9日,プレイエル・ホール。
推薦盤

★★★★☆
"L'oeuvre pour Piano :
Pavane pour une Infante Défunte / Sonatine / Le Tombeau de Couperin / Gaspard de la Nuit / Jeux d'eau / Menuet Antique" (EMI : TOCE-7082)

Samson François (piano)
戦後フランスが生んだ天才ピアニスト,フランソワは,晩年にラヴェルとドビュッシーのピアノ曲を連続録音します。このうちドビュッシーは,亡くなる僅か二,三年前から録音を始め,結局彼の死去によって完成を見ぬままに終わってしまいました。彼はそのドビュッシーの名手としても名高いのですが,死期の近いその演奏にはかなりムラも多いのが実情です。しかし,このラヴェルのほうは素晴らしい。当時のフランソワはまだ演奏家として脂の乗った時期でした。現代のピアノ弾きに比べると,彼は決して技量面で勝っているとはいえないのですが,どうしても譜読みの影がどこかに漂ってしまう他のピアニストとは一線を画し,極めて自由で即興的,霊感に富んだ曲解釈が何よりの強み。『水の戯れ』同様,瞬時に姿を変える水のアニメを題材とし,アルペジオ主体の高い形式的抽象性を備えた第一楽章はまさしく,フランソワの独壇場。端正であるがゆえに,却って高域の通奏リズム(32分音符)を扁平にしてしまう他のあらゆるピアノ弾きに比べ,フランソワの創り出すリズムの陰影と表情の,何と豊かで変化に富んでいる事よ!

★★★★☆
"Gaspard de la Nuit (Ravel) Piano Sonata No.6 (Prokofiev)" (Grammophon : 413 363-2)
Ivo Pogorelich (piano)
これは同曲を語るときに必ず挙げられる名演奏の一つ。ポゴレリチの曲解釈は基本的に,スラブ人とは思えないほどフランス的な艶めかしさを備えたもの。艶めかしいアゴーギク(テンポ揺らし)などを見ても,フランソワの極上演奏を研究した跡がありありと見えます(嘘だと思ったらアルゲリッチ辺りの他国人と3枚並べて,第一楽章を聴き比べてご覧なさい)。フランソワを範にしたという負い目がどこかにあるからでしょう。一楽章では時折独自性を出そうと考えてか欲目が出て,不自然なスタッカートが入ったりするあたりは少し気になりますけれど,フランソワの唯一の欠点が,現在のピアノ弾きに比べ技巧面で明晰さを欠くことなら,「輪郭不明瞭で他国人には自分流の解釈が難しい第一楽章ではフランスの先人に学び,技巧的な後半戦では自信のある自分流で勝負を掛けよう」という,この目論見は極めてクレバーなものといえるでしょう。無窮動的な通奏リズムを浮き立たせる二楽章は,現代的なすっきりとした見通しがありますし,さらに見事なのは,技巧面で勝る彼の本領が発揮されたトリッキーな第三楽章。めまぐるしく交錯するパーカッシブな音符の連なりを,表情を整えたまま苦もなく弾きおおせる技量に快哉を叫びます。余談ながら併録のプロコフィエフは,いかにも彼らしいパーカッシブかつ叙情性希薄な新古典派ソナタ。シューマンの『謝肉祭』をラヴェルの『スカルボ』で割り,スクリャービンのスパイスを少しだけ足したような曲です(笑)。

★★★★☆
"Jeux d'eau / Gaspard de la Nuit / Miroirs" (Berlin Classics : 0032252BC)
Cécile Ousset (piano)
セシル・ウーセは1936年生まれのフランスの名女流。パリ音楽院一等という素晴らしいキャリアの割に,今ひとつ日本で人気がないのは木の実ナナに似てるからでしょうか。このラヴェルは良く知られているドビュッシーよりさらに前の1972年に録音されたもので,まだ30代半ばと,彼女が最も輝いていた頃のもの。それだけに中身は強烈無比,聴いて吃驚の大名盤でした。特に『水の戯れ』は出色で,過去の数多の名演と比べても遜色ないレベルだと思います。とにもかくにも弱音が美しい。細部のアルペジオが軽やかで良く力が抜け,実にみずみずしいために,『水の戯れ』など,5分40秒台の速いテンポでルバートに頼らぬ原典忠実型の演奏でありながら,まるで一本調子な感じを与えません(これはかなり凄いことなのです)。さらに休符のセンスが秀抜。前述『水の戯れ』は勿論,白眉の『鏡』は,才気闊達な当時の彼女の独壇場です。異常な高速運指を利し,現代音楽的効果を狙う大胆な休符を置いた冒頭の『蛾』など,その効果を最大限にすべく,あまりに運指のテンポを上げたせいで細部に音符の摩滅が見られないといえば嘘になるのも事実。しかし,それを承知で,敢えてこの冒険的な演奏に取り組んだ心意気とセンスの良さには脱帽するしかありません。これで1400円は罪作りすぎます。最上級の賛辞に値する名演奏,甲種お薦め。

★★★★
"Menuet Antique / Pavane / Jeux d'eau / Sonatine / Miroir / Gaspard de la Nuit / Menet sur le Nom de Haydn / Prélude / Valses / Le Tombeau de Couperin / Le Deux Concertos" (Accord : 4767906)
Jean Doyen (p) Jean Fournet (cond) Orchestre des Concerts Lamoureux
残念なことに教育者としての活動にご熱心だったドワイヨンは録音も多くなく,仏近代ファンの耳で愉しめそうなまとまった録音は,フォレとラヴェルくらいしか記憶にありません。そんな彼が,ラヴェルにだけは殊の外御執心で,まとまった録音を遺してくださったのは僥倖でした。本盤は2005年に日本ユニバーサルが企画したコンピ盤で,1960年にスコラ・カントールムで行った独奏曲録音と,1954年にフルネ指揮ラムルーを迎えて演奏した2つの協奏曲を併録。前者は確かエラート原盤,後者はフィリップス原盤で,以前CD化もされていたものですが,ドワイヨンのラヴェルとして全集化すべく,わざわざこの廉価盤のために持ってくる作りは良心的じゃないでしょうか。彼のラヴェルは,安易なペダルやテンポ崩しに寄り掛からない硬派な演奏姿勢と,恐らくは使用しているピアノのせいもあるであろう,ゴツゴツとした風合いが印象的。古き良き時代を強く感じさせるラヴェルです。フワフワ浮遊する洒落た雰囲気の希薄な,がちっと固まった演奏は,同じ時代に活躍したフェヴリエやペルルミュテルにも通じます。なにぶん半世紀前。粒の不均質さはやや目立ちますし,武骨なパヴァーヌや挑み掛かるようなガスパールも,現代の演奏に慣れた向きには違和感があるかも知れません。しかし彼のラヴェルには,現代のナヨっちい演奏家にはない,決定的なものが存在する。それは,ひとつひとつの音型に込められる明確な意志。演奏が硬いか柔らかいかは嗜好の問題で片づきますけれど,解釈に一貫性や透徹性があるかどうかは極めてフェータル。特に擬古典的な『ソナチヌ〜アニメ』は,この美点が最大限に生きた,まさしく理想の演奏。感嘆するしかありません。合うのかなと心配だった『鏡』も,かっちりと曲の相貌を捉えた譜読みの確かさと,ペダルに逃げない男気に快哉。お値段を考えれば充分過ぎるほど元が取れる。特にラヴェルを弾こうと志すピアノ弾きの方は,こういう演奏から多くを学ぶべきでしょう。
 (評点は『夜のガスパール』のみに対するものです。)

(2003. 01. 09 / Revised: 2005. 2. 26 USW)







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